要約
2025年6月20日、イギリス下院で安楽死を認める法案が賛成多数で可決されました。賛成314票、反対291票という僅差での可決は、社会がこの問題にいかに揺れているかを如実に示しています。これは「いのち」と「尊厳」、「自由」と「制度の脆弱性」という複雑な問題の結節点であり、特に高齢化が進む日本社会にとっても、もはや他人事ではありません。
本記事では、イギリスの安楽死法案の内容と背景、賛成・反対両者の主張、日本との比較、そして今後の課題について詳しく掘り下げていきます。
安楽死法案とは何か?
今回イギリスで可決された法案は、終末期患者に「自ら命を終える選択肢」を認めるものです。以下の条件を満たすことで、患者は安楽死を選ぶことができます。
- 対象者:イングランドおよびウェールズに居住する18歳以上の成人
- 条件:医師から「余命6ヶ月以内」と診断された者
- 必要な承認:
- 医師2名の診断
- 弁護士、精神科医、ソーシャルワーカーで構成される専門家パネルの承認
- 実施方法:医師が用意した薬を、患者本人が自ら服用する
また、法案には以下のような補足規定も設けられています。
- 医療関係者は安楽死への関与を拒否する権利を持つ
- 18歳未満の患者に対して、医療者が安楽死の話題を持ち出すことは禁止
これは「自死の自由」と「制度の悪用を防ぐ制約」のバランスを図った設計といえるでしょう。
賛成派の主張:「尊厳ある最期」という選択肢
安楽死に賛成する人々は、以下の3点を強調します。
(1) 耐えられない苦痛からの解放
末期がんやALSなどの患者にとって、治療を施しても取り除けない苦しみがあります。「これ以上は耐えられない」と感じたときに、安楽死という選択肢は穏やかな別れを意味します。
(2) 自分の人生は自分で決めたい
誰かの介助なく生きられない状況や、動かぬ身体を抱えながらも意識だけが残る生活。そんな状態で「このまま生きる意味は?」と感じたとき、安楽死は自己決定の一部と見なされます。
(3) 家族の負担軽減
介護する家族にとっても、精神的・経済的な負担は計り知れません。「愛する人に苦しみを続けてほしくない」と願う家族にとって、安楽死は思いやりの選択とも言えるのです。
反対派の懸念:「命の価値」と「制度の危うさ」
一方で、反対派の意見は次のような懸念に基づいています。
(1) 命の尊厳を揺るがす
宗教的な背景を持つ人々にとって、命は神から授かったものであり、終わらせることは許されないと考えられています。
(2) 社会的圧力と選択の自由の歪み
高齢者や障害者が「自分はお荷物」と感じ、望まぬまま安楽死を選ばされる状況は絶対に避けるべきです。
(3) 医師の職業倫理との矛盾
命を守る使命をもった医師が、命を終わらせる選択に関わることは、職業倫理に反するという意見も根強いです。
(4) 誤診や回復の可能性の見落とし
医療には常に誤診や奇跡的回復の可能性があることを忘れてはいけません。もし誤った判断で命が絶たれてしまったら、それは取り返しのつかない過ちになります。
日本の現状と課題
現在の日本では、安楽死は原則違法です。患者の強い希望があっても、医師が薬物を使って命を絶つ行為は「自殺ほう助罪」や「嘱託殺人罪」に問われる可能性があります。
一方で、延命治療を中止する「尊厳死」については一定の理解が進んでおり、現場でも話し合いを重ねて対応するケースが増えています。ただし、法的な裏付けがないために医療側は非常に慎重です。
✍ 日本に必要な議論
- 安楽死と尊厳死の違いを明確にする
- ガイドラインや第三者機関の設置など制度整備
- 医療現場と患者・家族の対話の強化
- 弱者保護の視点からの法整備
- 宗教・文化を配慮した価値観の共有
世界の潮流と日本の未来
欧米を中心に、安楽死を合法化する国は増加の一途をたどっています。自由と自己決定を重視する国々では、安楽死を「生き方の最終段階」として受け入れる動きが強まっています。
一方、日本は「死」の議論を避ける傾向が強く、現実的な法整備は遅れたままです。しかし、医療や介護の現場では限界が近づいており、もはや議論を先送りにする余裕はありません。
終わりに:「生きる」とは何かを、社会全体で考える時代へ
安楽死は「死の選択」ではなく、「生き方の締めくくり」を意味するのかもしれません。
今こそ、偏見や感情論ではなく、科学的・倫理的な議論を始めるときです。個人の自由と制度の安全性、命の尊厳と現実的負担。その全てを見つめ直し、日本社会が成熟した選択をするための第一歩を踏み出しましょう。
「私」の立場から考える:てんかんと意識障害の経験を通じて
ここで一つ、私自身の体験を共有させてください。
私は、かつててんかんの発作を初めて経験し、3日間意識を完全に失っていたことがあります。てんかんの発作は通常、数分で回復するといわれますが、私の場合は他の疾患の影響も重なり、まったく目を覚まさず、自分が何をされていたのかもわかりませんでした。
もし、あの状態がさらに長引いていたら? もし、そのまま「回復の見込みがない」と判断されていたら? 私は、自分の意思を誰にも伝えることができなかったはずです。
人は誰しも、いつ「意思を示せなくなる状態」に陥るか分かりません。そして、そのときに決断を迫られるのは自分ではなく、家族や医療者です。
私には、もしものときに面倒をみてくれる家族がいます。しかし、介護や医療の判断を「すべて家族に委ねる」ことが本当に良いのか、常に自問しています。
安楽死というテーマは、あくまで「健康なうち」に考えておくべき重要な課題です。私はこの問題を、自分自身の実体験を通して、より真剣に考えるようになりました。
家族に重すぎる負担を背負わせないために
高齢化が進み、単身世帯や介護者不足が深刻化する中、今後さらに多くの家庭が「終末期の判断」を迫られるでしょう。
「本人の意思がわからないまま、家族が“延命するか・安楽死を認めるか”を決める」ということが、現実になりうるのです。
そのとき、
- 法律も整備されていない
- 本人の意思も記録されていない
- 制度的な支援もない
こうした状況で、果たして誰が「正しい判断」をできるでしょうか?
だからこそ、日本でも制度と議論が必要
安楽死の是非をすぐに決めることは難しいかもしれません。
しかし、「議論を始めること」さえ拒む社会で良いのでしょうか? 生き方と同じくらい、死に方にも準備が必要です。
私のように、予期せぬ病気で一時的にでも意思を失った人間にとって、そして、支える家族にとって、制度や法律は、「安心して最後まで生きるための支え」になるはずです。
コメント