■はじめに:終わらない「反省」の議論
南京事件から88年。中国からは「日本はドイツと異なり、未だ反省していない」という批判が繰り返されています。日本側がいくら「謝罪の言葉」を重ねても、なぜ相手には届かないのでしょうか。
そこには、単なる政治的対立を超えた、日本人特有の「脳の構造」と「未分化」、そして「日本語の非論理性」という根深い問題が隠れているのかもしれません。
■日本人の脳:ロゴスとパトスの同居
言語学者の角田忠信氏が提唱した「日本人の脳」説によれば、日本人は西洋人が右脳(パトス・感情)で処理する「虫の声」や「自然の音」を、左脳(ロゴス・論理)で処理するとされています。

このことは、日本人の精神構造において「論理」と「情緒」が切り離せないまま同居していることを示唆しています。
- 西洋的脳: 論理(ロゴス)と感情(パトス)を左右の脳で機能分担し、明確に切り離して処理する。
- 日本的脳: 論理を司るはずの左脳で、同時に心や自然の気配(パトス)を感じ取ってしまう。

■「主語」の欠如と「もの・こころ」の未分化
日本語は、論理的というよりは非常に「非論理的」な側面を持つ言語です。その象徴が「主語の欠如」です。
- 西洋(分化型): 「I(主語:誰が) am sorry for X(述語:何に対して)」。責任の所在と客観的事実(もの)を論理的に分離する。
- 日本(未分化型): 「申し訳ない」。主語を省き、話し手の「こころ(情緒)」と、その場の「空気(状況)」を一体化させる。
私たちが直面している問題の本質は、客観的事実としての「もの」と、主観的情緒である「こころ」が未分化(混ざり合った状態)で処理されている点にあります。
かつての第二次世界大戦において、日本が勝ち目のない戦局でも「大和魂」や「精神論」を優先して突き進んだのは、客観的なデータ(もの)よりも、集団の空気や決意(こころ)を上位に置いてしまう脳の使い方が原因だったと言えるでしょう。
■外交における「曖昧さ」の正体
この「未分化」と「非論理性」は、戦後の「反省」の伝え方にも影を落としています。
- 日本人の「反省」: 主語を曖昧にしたまま「申し訳ないという心(パトス)」があれば、それは自ずと伝わるはずだと考える。論理性よりも、誠意という「空気」を重視する。
- 国際社会の「反省」: 主語と述語を明確にし、「何が、いつ、どこで、誰によって行われたか」という論理的(ロゴス的)な事実確認と、法的な責任追及を求める。
日本人が「心の中で深く反省している」と言っても、それが論理的に体系化(分化)されないまま「非論理的」な日本語で語られるため、外部からは「実態のない、その場しのぎの曖昧な表現」に見えてしまうのです。
■結論:未分化な脳を超えて
日本人が「反省していない」と言われるのは、私たちが「反省」を「こころ(精神論)」の領域に留めてしまい、相手が理解できる「もの(客観的論理)」へと翻訳(分化)できていないからではないでしょうか。
主語を曖昧にし、情緒に訴える「非論理的」なコミュニケーションは、日本人の美徳であると同時に、国際社会という「論理の戦場」においては最大の弱点にもなり得ます。
私たちが真に「反省」を伝えるためには、自らの脳内にある「未分化な情緒」を自覚し、曖昧な日本語の奥に隠れた「誠意」を、誰の目にも明らかな「ロゴス(論理と責任)」へと切り分ける勇気が必要なのかもしれません。


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